青森に逃げるぞ

王さんは帰宅して開口一番「青森に逃げるぞ」と言った(夫婦二人とも実家は青森)。今晩の暗闇と、ライフラインの絶たれた今後の生活を生後2ヶ月にならない次女を抱えてどう過ごすか、を必死でシミュレーションしていた(この時点でガスは1週間ぐらいかな、と予想)(とりあえず地域の避難所に行くしかないと考えていた)自分は、頭がうまく回らず「え?連絡もしないで?(すでに携帯も固定電話もパンク)」とか「高速は大丈夫なの?」とか今思えば頭が災害モードに切り替わっていないための寝ぼけた発言をしていた。災害モードに完全に切り替わっている王さんに「日が落ちないうちに早く準備しろ」と急かされ、「確かに、次女のことを考えたら絶対に逃げた方がいいし、今逃げないと逃げられなくなるかも知れない。」とようやく理解できたので、王さんと協力して落下物を踏まないように全部ゴミ袋に片付け、冷蔵庫がまた開かないようにガムテープで固定し、元栓を閉め、コンセントを抜き、当面の着替え、薬などの必需品(なぜか化粧品一式も忘れなかった)、非常持ち出し袋、食料(食パンやお菓子類)、車中泊用の毛布や布団を準備し、そしてなぜか作りかけの角煮をタッパーに詰め(焦っている人間は何をするかわからんもんですね)、なぜか懐中電灯はすっかり忘れたまま、王さんの帰宅後わずか1時間で赤子と3歳児を連れて家を出たのだ。外に出ると無常にも雪が激しく降り始めていた。
王さんの「まずは主要道路に出たほうが良い」との判断で国道4号を目指す。道路はひび割れ、無数の段差が出来ている。信号は止まっているが交通整理などまだ行われておらず、優先の道路は優先側しかほとんど行けず、それ以外の道路は阿吽の呼吸で行くしかない。そういう意味で、4号を目指したのは正解だった。4号に出ると、超主要な交差点のみ信号がついている(非常時用電源があるようだ)以外はやはり信号が止まっている。助手席からの景色は、家の瓦が落ちていたり、店舗のガラスが割れていたり、店舗の植え込みが崩れているなど、地震の大きさを物語るものだったが、「こりゃ三陸の方は大変だな」と王さんと話してはいたが、内陸の4号を走っている我々には想像し得ないような状況が、この時海側で起きていたのだ。
ずっとラジオをかけていても、同じことを繰り返すばかりで、高速の情報はなかなか入ってこない。途中2つぐらいのICまで行ってみてダメだったので「やっぱり通行止めみたいだね」と言って出戻り、もうひたすら4号を行くしかないと決意。夕食なんだか何なんだかわからない食パンをみんなで食べながらしばらく走る。20時頃、一関市内に入ったあたりで、さすがに子供もそろそろトイレに連れて行かねばならないだろうということで、ナビ上に出てきた一関市役所を目指す。自分は全く知らなかったのだが、サバイバル能力の高い王さんによると、こういう時市役所は「災害対策本部 兼 避難所」になるそうで、非常用電源もあるしトイレの水も出るそうなのだ。実際、行ってみると避難民が集い、暖をとっていた。ちなみにトイレは水が出たのだが「節水に協力を」「小は流さないでください」となっていたので自分も長女もちゃんと流さずに出た。避難民への食料が配られ始めていたのだが(もちろん我々は頂きませんよ)、こんな時に、配られた弁当を持って「あっちの寿司と取り替えてもらおうよ」と話している、いい年の夫婦がいて「うわぁあ…」と思った。携帯で何度か青森に連絡をはかったのだが全くダメだったので、市役所の公衆電話からかけてみると、何とつながった。王さんによると、公衆電話は固定電話とは違う回線を使っているので災害時でもつながりやすいのだそうだ。双方の実家に、避難を始めていること、そちらも大変だろうけど(この時点で青森も停電中)、可能であれば世話になりたいことを伝え電話を切る。
市役所を出てしばらく走ると、ずっと昼寝していた割りに長女はまた寝始めた。自分と王さんは、ラジオから少しずつ入ってくる情報に、今回の地震がとにかく「ただのもんじゃない」ことを知り始めていた。
23時頃、岩手町役場付近で力尽き、役場の前に車を停めて仮眠。しかしテレビを全く見ていなかった王さんが車のテレビでニュースを観始め(「すげーことになってるよ」と言われたが最後部座席に寝ていたのと、今は睡眠の方が大事と思って画面は観なかった)、流れてくる音声で津波の被害が甚大であることを知り、なかなか寝付かれなかった。